機関誌【一期一会No.138】が発刊されました。
機関誌発行
2025.06.25 2026.04.02
『大阪・関西万博に際しての想い(前編)』
~55年前:「大阪万博」、20年前:「愛知万博」の懐かしい思い出~
税理士法人TACT髙井法博会計事務所
TACTグループ関連12社 代表
会長 税理士 髙井 法博
現在、大阪府夢洲にて「2025年日本国際博覧会(通称:大阪・関西万博)」の開催が決定されており、T A C Tグループでは5月17日にお客様と私共社員にて『国内研修旅行~大阪・関西万博~』を開催した。私は「万博」に深い思い入れがある。今回は前編・後編の2回に分け、「万博」での思い出・学び・気付きについて記したいと思う。
1.1970年「大阪万博」での思い出
私が初めて万博に行ったのは今から55年前、1970年にアジア初・日本初の開催となった「大阪万博」(通称:EXPO‘70)であった。当時23歳だった私は会計事務所開業前で、大恩ある㈱後藤孵卵場(通称:ゴトウのヒヨコ)子会社の㈱美濃かしわへ出向をさせていただいていた。当時はまだ自家用車は一般的ではなく、またほとんどの社員は車が所有できず、高校時代の仲間や会社の同僚と共にレンタカーや同僚のお父さんの車を借りて会場を訪問。途中の高速道路で車がオーバーヒートを起こし、大変な修理代がかかったうえに半日を無駄にしたのも、当時の日本の車の品質や日本国民の経済・生活状況を知る懐かしい思い出であった。開催年である1970年の日本は高度経済成長期の真っただ中にあり、1968年にはアメリカに次いで世界第二位の経済大国となるも、各種生活基盤・インフラの整備(電気・水道・ガス・交通、道路・鉄道・通信網など)に伴って大気汚染や水質汚染、各種公害の発生、その他様々な問題が顕在化し始め、解決に向けて取り組み始めている時であった。そのような時代背景も相まったのか、この時の万博のテーマは『人類の進歩と調和』であり、これは技術の進歩と同時に、それによって生じる社会的問題や環境問題といった、「人類の進歩と調和をどのように実現するか」という課題がテーマとなっていた。広大な会場内に導入された「動く歩道」や「人間洗濯機」(三洋電機/その後、現パナソニックに買収された)、アメリカ館ではアポロ11号が持ち帰った月の石が展示され、海外パビリオンで働く海外の方々。宇宙産業やロボット、各産業における技術の進歩と共に、世の中がグローバル化に向けて進んでいる姿を目の当たりにした。「EXPO’70」には、77ヵ国と4つの国際機関が参加していた。出展している海外パビリオンでは各国のエリートの方々が来日し、片言の日本語を駆使して積極的にコミュニケーションを図り、誰もが自国の文化、進化・発展に自信を持ち意気揚々と働いていた。2025年の現在では、日々生活をする中で外国人と接する場面や共に仕事をする機会は日常茶飯事となったが、1970年当時の岐阜県では「海外の方を見かける」というのは、まだとても珍しかった時代である。日本国内でこれだけ多くの各国エリートが集い、一つのテーマに沿って働いている環境に驚くと共に、そのような方達に話しかけ会話をするのは珍しく、勇気がいった。「自分が知らない世界を体験したい」と緊張しながらも積極的に話しかけ、携行していた公式ガイドブックに訪問したパビリオンのスタンプを押したり、そこで案内いただいた方々のサインをいただいたのは懐かしい思い出である。会場では、その他にも「未来の電話」としてワイヤレステレホンが展示されていた。実際に、この肩からぶら下げる大きな『携帯電話』で勤務先の会社に興奮しながら電話をかけたことが、つい先日のように思い出される。目にする事柄、耳で聞くもの、体験することすべてが驚きの連続であり、『これから先、未来の日本はどうなるのか・・・』と、未来の姿に心が躍り、「あれも観たい、これも観たい!」と、通算7回も訪問したのだったが、行く度に日本・世界の進歩への熱気と、新たな発見や気付きの連続であった。また、会場のシンボル、岡本太郎の『太陽の塔』が懐かしく思い出される。それから55年後の現在、当時体験したことのいくつか(スマートフォン〔携帯電話〕・テレビ電話・動く歩道・缶コーヒー・ピクトグラム 他)が既に現実となり、その実現スピードは想像していたよりもはるかに早く、進歩し世の中に広く普及している。
2. 2005年「愛知万博」での思い出
1970年の大阪万博から35年後、そして今から20年前の2005年に地元 岐阜県の隣県である愛知県長久手町で開 催された「愛知万博」(愛称:愛・ 地球博)にも、私共夫婦にとってとても嬉しい思い出があります。と申しますのは、私事ですが一番下の娘が学生時代に脊髄の病気を発病し、大学卒業後に11時間に及ぶ大手術を岐阜大学病院にて行っていただきました。その後、歩くことはおろか一時座ること・立つことも困難で寝たきりとなり、自宅療養を余儀なくされていた。活発な子であったが体力も落ち、妻と共に今後のことを心配していた。その後、長期のリハビリ等を経て歩けるようになった際、私たちのこの気持ちを知ってかどうか、家族に知らせることなく「愛・地球博」の事務局要員に応募し、スタッフとして採用されることとなった。自宅から会場までは当時まだあった名鉄美濃町線(2005年に廃線)と名鉄名古屋本線を乗り継ぎ、名古屋からは地下鉄東山線と万博に向けて開通となったリニモ(リニアモーターカー)に乗り換え、片道約2時間もかかる行程であった。ラッシュ時などは座ることもできないため皆心配したが、開幕当初から閉幕までの期間、決められた定休日以外一日も休むことも遅刻することもなく働いた。それだけでも安堵し嬉しかったのだが、初めて働きいただいた初任給で家族分の入場チケットと首からぶら下げるチケットホルダー、日よけ用の帽子やハンドタオル、団扇・ピンバッジ・ドリンクホルダーなど、モリゾーとキッコロ(愛・地球博のマスコット)のマークが入ったグッズを揃え、公式ガイドブックには付箋をいっぱいつけてプレゼントしてくれた。そして、休みの日に皆を万博会場へ招待し、会場内で人気のパビリオンや話題の食堂に案内・アテンドしてくれた。会場内で活き活きと案内する娘の姿は、「ここまで元気になってくれたのか」と大変感慨深く、家族を招待してくれたことは終生忘れることはできない大切な、とても嬉しい思い出である。これを機会に学生時代のような活動的な娘に復帰してくれ、この直後から高井会計に入社し、現在では経営管理部で私の秘書として就業中のみならず帰宅後や休日も、自宅で執務する私のバックアップをしてくれている。この時のテーマは『自然の叡智』であり、これは自然の持つ素晴らしい仕組みや生命の力を再確認し、それらを活かして持続可能な社会を築くことを目的としていた。会場までの交通手段として国内で初めて磁気浮上式リニアモーターカーが導入され、自動運転バスの運行やロボット・冷凍マンモスの展示なども行われ、交通インフラの整備や環境問題への意識向上などに繋がったほか、自動運転バスは国内でも広がりを見せ今回の万博会場内でも活用されている。次回は、今回の『大阪・関西万博』について連載させていただく。
(文責:広報委員長 髙井 歩実)