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FOUNDER

創業者 髙井法博

我々TACTグループはビジネスサポート・情報発信を通してお客様の経営体質強化を図り、社外重役としての役割をはたすことを使命としております。

TAKAI NORIHIRO

TACTグループ 代表

髙井 法博

TAKAI NORIHIRO

TAKAI
NORIHIRO

代表挨拶

当社はお客様の経営体質の強化と、健全経営の実現のために、お客様に対し「ビジネス・サポート業」・「情報発信基地」・「社外重役」としての役割を果たし、お客様の事業の継続・発展に寄与することを【創業の原点】として、昭和52年3月に高井法博会計事務所を創業しました。

中小企業経営者の悩みの多くは「人」であり、経営者は「苦楽を共にし、重い荷を一緒に背負う仲間が欲しい」と、心の底から思っています。次いで、誤りなき的確な判断ができる「正しい情報」が欲しい。企業を成長・発展させていくためには、生産性の高い「高収益型事業構造」を確立し、「内部留保の厚い財務体質」を創る必要があります。

企業は環境適応業である。変転する社会の中で生き残り、継続・発展していくためには、経営者の「意志決定」が極めて重要で、会社の現在の姿は今までの経営者の判断と行動の集積の結果であることは、論を俟たない。

成長・発展できる企業とは、経営者が経営力を磨き、考え方・人格・思想を高め、正しいこと・決めたことを愚直に『成功するまであきらめずに、やり通す企業』であると確信しております。

創業当初より、税務・財務・会計のみにとらわれず、中小企業の経営を支援するあらゆるサービスを提供できる、「ビジネス・サポート業」として、また、価値ある情報を提供する「情報発信基地」として、約200名の研修が可能な「TACTグループ中央研修センター」を建設し、年間80回に及ぶ研修会を開催。さらに、お客様の身内の一人として「社外重役」となる決意をし、現在では(税)TACT髙井法博会計事務所を中心とする関連会社12社のTACTグループを組織するに至りました。

企業の継続・発展のためには、「黒字」は必須であり、TACTグループ関連12社は自らを「黒字企業製造業」と位置づけ、創業以来 経営助言の中心に「企業成功の秘訣は、目標設定にあり」そのためには経営計画書の作成と強烈な意志の貫徹無くしてはありえないと訴え、共に未来を築くパートナーとして、経営者の成長と企業の成長を全力で伴走し、支えて参ります。

TACTグループ関連12社 代表
髙井 法博

髙井法博の歩み

幼少期 僕の家は村いちばん貧乏な寺だった

幼少期 僕の家は村いちばん
貧乏な寺だった

TACTグループ代表の髙井法博は、昭和21年9月17日に、浄音寺というお寺で、父・善弘と母・冨士子の間に、男ばかりの三人兄弟の次男として生まれた。
浄音寺は五十世の住職を務めた浄土宗の由緒ある裕福な寺であったが、戦後の農地解放によって生活は一変した。小作料が得られなくなり寺の生活が行き詰ったため、父は家族を食わせるためにいろいろな事業を試みたが、うまくいかなかった。そんな中でも代用教員の職についていたものの、当時の教師の職業病とも言われる肺結核を患い、父は病に倒れることとなる。

母にかかる負担が増え、戦後の食糧難、物資不足が苦しさに拍車をかけ、高井が小学校へ入学した昭和28年4月のころには、生活保護を受けざるを得ないところまで追い込まれた。

幼少期 貧しさに苦しんだ幼少時代

幼少期 貧しさに苦しんだ
幼少時代

生活保護を受ける日々は、本当に苦しかった。寺の境内で飼っているニワトリが生んだタマゴを八百屋へ持っていって売ったり、新聞配達のアルバイトをして修学旅行の積立、学校の給食費などを稼いだり、少しの自由にできる小銭が欲しくて、ホタルを捕まえて旅館に売ったりもした。
また、教育に熱心であった両親のおかげで、教科書や文房具は常に新しいものがそろっていたし、様々な物語本、月刊誌、時には漫画雑誌を読み漁り夢中になっていた。

昭和34年4月、山県中学校に入学するころになっても、家の状況は変わらず、生活保護が続いた。家業を手伝っていた私は、盆や彼岸などの忙しい時には一人で檀家回りをしたりもしていたが、中学3年生の夏、父は48歳の若さで、脳溢血で倒れてしまった。重症の父を心配すると同時に、以前から生活保護の調査で民生委員や県事務所厚生課の方々と父の会話を聞いていたため、「あぁ、これで高校進学は諦めなければならない」と目の前が真っ暗になった。
しかし、当時の担任の宇野先生が、私を株式会社後藤孵卵場の奨学生に選んでほしいと頼んでくれ、大恩人である後藤孵卵場の創業者、後藤静一氏と出逢うことができたのである。念願の高校進学を果たすことができた。

高校時代 福槌寮で得た感謝の心

高校時代 福槌寮で得た感謝の心

昭和37年4月、私は岐阜県立岐阜商業高等学校貿易科に入学する。
後藤孵卵場の奨学生は、各務原市にあった中央研究所内の学生寮「福槌寮」に住んで学校へ通う。
私のほかに、岐山高校、岐阜農林高校など四校の生徒がおり、学費のみならず衣食住すべての面倒を見ていただきました。

後藤孵卵場の後藤静一社長は、「生長の家」の熱心な信奉者だったので、折に触れてその教えに触れることができた。その内容は高校生にもわかりやすく、自分が人々や社会に役立つことを常に願っていた。私たちは後藤社長に心酔し、その教えは人間形成の大きな糧となった。

高校時代 忘れられない先生との出会い

高校時代 忘れられない先生と
の出会い

高校1年生の時、簿記を習ったのは福井清兵衛先生である。ある日の授業で先生が出した問題に、生徒は誰も答えられなかった。順番が私にも回ってくる。当てずっぽうで言った答が偶然にも正解だった。
先生は私をほめてくれて、その日の授業は私が主役になって進んだ。
それ以来、簿記の授業は正解が出ないと、私が指されるようになった。先生の期待に応えるため一生懸命予習や復習にも励み、いつも正解を言い当て先生の笑顔を勝ち取った。簿記は私の数少ない得意科目の一つとなった。この時の自信が後に税理士の資格を取る力にもつながっていったのだろう。福井先生には事務所を新築し、その披露パーティーを開いたときにも来賓として出席いただき、お祝いの言葉をいただいた。

後藤孵卵場時代 だれよりも働いたサラリーマン時代

昭和40年4月、私は後藤孵卵場の社員となり、社会人としての第一歩を踏み出す。営業希望だったが、簿記のテストでいい成績を取ったので、経理に配属になった。今から振り返れば、この時の偶然が現在の自分につながったのだから運命とは不思議なものだ。

朝は誰よりも早く会社へ出勤する。始業時刻の30分前には席につき、終業時間は他の社員よりも1時間程多く仕事をした。仕事をだれよりも早く覚えたかったのである。だれよりも完璧に仕事を片付けたかったのである。決して頭のいい方ではない私が他人に勝つためには人一倍努力しなければならない、と歯を食いしばった。

後藤孵卵場時代 入社早々に任された経営管理職

後藤孵卵場時代 入社早々に任された
経営管理職

経理で一人前になるには、普通だと4、5年はかかると言われていた。私はそれを少しでも短くしたいと頑張った。これが認められ、1年後、関連会社の「美濃かしわ」に出向となって、経理主任の肩書きをもらう。
19歳で役職に抜擢されたことはうれしかった。
高校を卒業してわずか数年にしかならない社員が、スタートして間もないとはいえ会社の経営の中核に置かれたのだから、やり甲斐はあった。しかし、仕事の質は私の能力を超えていた。その苦労は並大抵ではなかった。小さな会社には導いてくれる上司もほとんどいないので、師匠はほとんど書物に頼った。 分からないことができると、すぐに本屋へ走り、3冊も4冊も買ってきて、家に帰るとすぐむさぼるように読む。毎月、10冊は読んだであろう。両親はまだ生活保護を受けていたので、給料の半分は家へ仕送りしたが、残り半分のほとんどを本代に使っていた。

本の内容は砂に注がれた水のように吸収することができた。もちろん、本の知識だけで経営管理ができるものでもない。本で学んだ知識や疑似体験はすぐ実践に移し、試行錯誤を繰り返す。道なき道を進みながら失敗と成功が織り成す糸を頼りにひたすら前進した。

後藤孵卵場時代 見失った希望

後藤孵卵場は世界一のひよこ生産会社として順風満帆だったが、昭和40年代の中頃から大きな経営危機に直面する。グループ会社である美濃かしわにも大きな経営危機が訪れた。月末の支払いや手形決済にも事欠くようになり、取引先から激しい言葉を浴びせられることも珍しくなかった。

自分の能力を超える問題が次々に起こり、私は疲労困憊していった。神経をすり減らし、食欲が落ちて眠れない日が続く。そんなある日の夜、私は事務所で大量の吐血をした。薬を飲もうとしたが、胸につかえて飲み込めない。おかしいなと思った瞬間、洗面器が真っ赤になるほどの血を吐いたのである。すぐに病院に行った。診断は胃潰瘍で、1ヶ月の入院を勧められる。しかし、完全入院は1週間だけ。その後は午前中に点滴などの治療を受け、午後は会社に行き、夜になって病院に戻る日を続けた。

わき目も振らず仕事に打ち込み、周りの人たちを驚かすような結果を残してきた私だったが、逆境に出会って糸が切れたように希望を失っていた。

後藤孵卵場時代 大学という希望

暗い箱の中に閉じ込められていた私に、かすかな希望を与えてくれる言葉があった。「大学」。大学へ行きたい。人一倍知識欲が強かった私にとって、大学はいつも憧れの的だった。大学で教わる真理が私の疑問に応え、より高度な社会へのパスポートを与えてくれるに違いない。その思いはずっと持ち続けていたが、精神の危機に立ってみると、大学だけが今の苦しい現実から逃れられる脱出口のように思えた。

私一人ならアルバイトをしてでも大学へ行けたかもしれない。 しかし、実家の両親を思うと自分だけが大学へ行く勝手は許されなかった。

後藤孵卵場時代 大学をあきらめ税理士試験にチャレンジ

大学進学を断念した私は、後藤孵卵場の田中経理部長から「本社の早川経理課長も税理士試験の勉強を始めた。髙井君も税理士資格を取ってはどうか。」というアドバイスをもらう。会社でお世話になっていた所会計事務所の平山さんからも同じようなアドバイスを受け、税理士資格の勉強をはじめた。

会社では美濃かしわは新しい活路を見つけた。各地に直売店を次々とつくり、百貨店やその頃できはじめたスーパーなど量販店にも進出したのである。従業員も増えて200人規模の会社に成長する。会社に元気が出てくると、私の体力と気力も回復した。

再び猛烈な仕事の鬼となった私は、部門別会計システム、工場での原価計算を確立したのも、この頃のことであった。企画室の室長も兼任していた26歳の頃、本社の田中部長から経営計画書をつくれという指示があった。それが経営再建計画書とのはじめての出会いだった。

後藤孵卵場時代

初めてつくった経営計画書は、本を参考にし、親会社の経営者でもない私が手がけたものだから、完全なものができるはずもない。しかし、仕事を命じた田中部長からは、その出来映えを褒めていただき、うれしかった。曲がりなりにも美濃かしわの経営管理に役立ち、自信にもつながったのであった。この数年後、私は会計事務所を興すことになるのだが、毎年の経営計画書づくりは、現在まで一度も欠かしたことがない。それは事務所経営の設計図、羅針盤となったばかりでなく、お得意先の経営コンサルタントを務める際の最も重要なツールともなったのである。

後藤孵卵場時代 夢の税理士試験に合格

後藤孵卵場時代 夢の税理士試験に
合格

やり出したら止まらない私は、税理士試験の受験勉強にもありったけの力を注ぎ込む。資格を取るまでには5科目に合格しなければならない。5年間で必ず取得することを目標にした。
そして、昭和51年12月17日、私はとうとう税理士試験全科目に合格し、税理士の合格証書を郵便で受け取った。24歳で受験勉強に入り、6年目、30歳になっていた。計画より1年遅れたが、その喜びは粘り強く励ましてくれた妻への最高のクリスマスプレゼントにもなったのである。

後藤孵卵場時代

会社を辞めて独立するという気持ちがなかった訳ではないが、独立してやっていける自信もなかったし、何よりも私を高校にやっていただき、物心両面で支えていただいた大恩ある後藤静一社長に、弓を引くようなことは許されないと思った。

しかし、経営に悩んでおられる方のお力になりたいという気持ちが強くなり、独立への思いを後藤社長に打ち明けた。申し出を聞いた社長は、「君は入社以来、誠心誠意全力で働き、私をよく助けてくれている。会社にはなくてはならない社員だ。いずれは役員になって会社を背負って立つ人になってもらわなければならない」と言ってくださり、私はうれしかった。会社にどうしても必要な人間だと認められ、強く慰留されたことに感謝した。夢の実現と会社で任されている仕事の責任の大きさの間で、心が引き裂かれる思いの日が続く。しかし、私の決意の固さは変わらなかった。折を見て何度も社長に退職を申し出たが、返事はいつも同じだった。社長から退社の許可が出たのは、その年の夏だった。
「私の人生も一回なら、君の人生も一回限り。苦労して勉強をした結果を思いっきり活かしてください」
私はその言葉を深く頭を下げて聞いた。
「君から話があると言われると、私はいつもビクビクした。また、辞めると言い出すのではないかとね。ビクビクもこれで終わりだと思うと、ホッとします」社長は続けて言うと、本当にホッとしたように笑った。
円満退社であった。

創業時代 限りなく広がる創業の夢

創業時代 限りなく広がる
創業の夢

12年間勤めた後藤孵卵場を退職した私が、高井会計法博会計事務所を開業したのは、昭和53年3月、31歳の時であった。
場所は、両親が住んでいた岐阜市三輪の浄音寺の隣接地。
まずは、生まれ育った先祖からの地を出発点にして、少しづつ岐阜市の中心部へ迫っていこう。それもそんな先のことではなく、近い将来必ず。そんな気概を胸に秘めて、私は第一歩を踏み出したのであった。

創業時代 顧問先第一号はあやめ寿司

記念すべき顧問先の第一号は、「あやめ寿司」というお寿司屋だった。県岐商の同級生がやっている寿司屋で、かねてから「開業したら帳簿頼むよ」という間柄の友人だった。
私は顧問先第一号のためにもっとできることはないかと考えた。自分が寿司屋の主だったらどうだろう。どんなことに関心があり、どんな悩みがあるだろう。そんな気持ちであたりを見回してみると、それまで気付かなかったものに関心がわいてきた。「お前、そこまでやってくれるのか」顧問料は月に数千円である。友人は足繁く通ってくる私に驚き、感謝してくれた。
そして、新しい顧問先を紹介してもらい、その顧問先が新たな顧問先を紹介してくれるという、うれしい循環ができた。

こうした初期のお客様は、ほとんどが個人事業だったが、経営者が必死に頑張り、私も一体となってそのサポートをした。成長した企業はやがて法人成りをし、しっかりした会社になっていった。

創業時代 ビジネスサポート業の理想を掲げて

創業時代 ビジネスサポート業の
理想を掲げて

高井法博会計事務所が目指したのは、帳簿の処理や申告手続きの代行、節税対策といった経理の後処理的な仕事だけではなかった。もちろんそれも大切な仕事の一つではあるが、本来の目標は別のところにあった。
開業に当たって私は、中小零細企業の経営に役立つために、次の3つを目標を決めた。

1)ビジネスサポート業
2)情報発信基地
3)社外重役

税務の立場から事業経営のアドバイザーとなり、経営のコンサルタントとして役立ちたいというのが念願だった。そして、現在に至る今でもその思いを持ち続けている。

打越時代 ついに完成した夢の自社ビル

打越時代 ついに完成した
夢の自社ビル

昭和60年12月12日、岐阜市打越に待望の新社屋が完成し、竣工式を行なった。延べ面積660平方メートルの鉄骨2階建て。以前の岩崎事務所に比べると7倍の広さになった。
12年間のサラリーマン生活にピリオドを打ち、開業して8年目。ささやかながらも、ついに自社ビルを持つことができた喜びで、私も妻も職員たちも胸がいっぱいであった。
新事務所の竣工は一つの到達点ではあった。しかし、開業してわずか8年目の到達点は、もちろんゴールではなく、新たな目標に向かっての記念すべき出発点となったのである。

打越時代 五島公認会計士事務所から業務を委譲

打越時代 五島公認会計士事務所
から業務を委譲

かねてからお付き合いのあった公認会計士、五島孝先生が病気を発症され入院・治療に入られた。昭和61年3月5日、五島公認会計士事務所所長 五島孝先生より次の依頼状をいただいた。

大変な重責を担うことになった。

その後、入院治療を続けておられたが、現業復帰は困難との状況で、自分に代わり、税務、経営について助言指導をお願いしてきた髙井会計に今後委託したいとの意向を固められ、以後、引継ぎさせていただき今日に至った。

打越時代 「実践こそすべて」の経営計画書実施作成セミナー

打越時代 「実践こそすべて」の
経営計画書実施作成セミナー

62年に開催したセミナーで記念すべきものは、11月12日から週1回のスケジュールで2ヶ月にわたって計6回行った「第1回経営計画書実施作成セミナー」である。
経営計画書の作成は、経営者にとって最も重要な仕事である、というのが私の一貫した考え方であった。
サラリーマン時代の体験を基に、自分の会計事務所で実践した結果を生かして実践指導に徹した。髙井法博会計事務所だけのオリジナルなセミナーであった。
平成元年には上期、中期、下期の3回にわたり開催し、基幹事業として定着した。開催場所も事務所の研修室を飛び出し、平成3年には愛知県伊良湖ガーデンホテルを使った4泊5日の宿泊研修となった。その後も下呂温泉の水明館、高山市の高山グリーンホテル、犬山市の名鉄犬山ホテル、岐阜グランドホテルなどの一流ホテル•旅館で開催しました。
現在では、TACTグループ中央研修センターにて、開催しています。

現在 いつも時代のテーマを先取りしながら

打越時代 いつも時代のテーマを
先取りしながら

打越に事務所を新築してちょうど10年目の平成7年9月、事務所増築工事が完成した。3階には最大170名が入れる大ホールをつくり、講演会や多人数の研修会の開催が可能になったほか、図書資料室を拡充した。
これらの施設の利用は顧問先にも開放し、事務所をヒューマン•ポート(人間波止場)にすることの目標は、ひとまず達成することができた。

新しい施設を使ってセミナー、研修事業は一層活発になった。急速に進展するオフィスのOA化に対して、8年には「経営者のOAセミナー」や「コンピューター活用セミナー」を開催した。同じ年には、「建設業セミナー」などの業種別セミナーも開始している。そのほか、日本でもその道の第一人者である著名な外部講師にもお願いをしてセミナーを開催している。

打越時代 借入金を完済

高井法博会計事務所とTACTグループの30年は、借金の歴史でもあった。
その歴史は三輪の自宅に兼事務所を建てた時から始まる。事務所を建てる4年前の当時27歳のときに、大垣共立銀行と住宅金融公庫から借りた370万円の大きな借金が開業の時からのしかかっていた。
やがて事務所経営は軌道に乗り始めるが、借入金は増えこそすれ、決して減ることはなかった。会計事務所が大きな借入金を抱えるケースは、一般的に珍しいかもしれない。定期的に決まった顧問料が期待できる会計事務所では、ほとんどその売上規模に見合った経営をしていくのが普通だからである。

しかし、私は現状維持の経営に決して満足できなかった。3年先、5年先あるいは10年先の目標を明確に定め、そこに向かってあらゆる努力を尽くしてきた。常時、多額の借入金があることは、もちろん大きな重荷であった。高額の生命保険に加入して重ねたその借金の大きさは、寝ても覚めても頭から離れなかった。

最も多い時の金額は、約6億3千万円であった。経営計画書には、この借金を平成15年までに全額返済すると明示していたが、目標の時期より2年早い平成13年9月、ついに6億3千万円の借金をすべて完済することができた。

打越時代 個人事務所を法人化

平成14年4月税理士業務自体の法人化が認められ、平成19年1月4日に税理士法人TACT髙井法博会計事務所を設立した。その際、定款第1条に「当法人は、お客様の経営体質強化と健全経営の実現のためにお客様に対し、「ビジネスサポート業」「情報発信基地」「社外重役」としての役割を果たし、お客様の事業の発展に寄与し、当法人の発展と全社員の物心両面の幸せを勝ち取り、もって、国家、社会の発展に貢献することをTACTグループの共通の使命とする」と定めた。

私たちは、お客様が期待される永続的な税理士法人として、全社員が高邁な精神とフィロソフィーをもって、お客様の発展のお手伝いをさせていただきたいという思いを込めて定めた。

打越時代 藤井正平税理士事務所との合併

打越時代 藤井正平税理士
事務所との合併

関市で開業されていた藤井正平先生が、ご自身の年齢と後継者難に伴って、事業の継続を検討される中で業務提携の打診をいただいた。その後各種整備を行い、平成19年2月に藤井正平税理士事務所は税理士法人TACT髙井法博会計事務所の関事務所として新生スタートした。

打越時代 名古屋千種駅前事務所(現:名古屋事務所) 開設

打越時代 名古屋千種駅前事務所
(現:名古屋事務所) 
開設

中部会計人互助会での活動を通じ、名古屋市千種区で開業されていた坂ノ上会計事務所を承継させていただくことになった。

坂ノ上瀬戸夫先生がご高齢で、かつ後継者が不在で承継先を探されている中、互いにTKCの会員であり、先生ご自身が私の妻と同郷、親戚も知り合いであることから具体的協議に入った。

将来の合併を前提に、役員の派遣や、定款の目的の同一化、さらに当社経営計画発表会に先生及び幹部社員の方々にご出席いただくなど、時間をかけて進めてきた結果、平成27年4月1日に合併する運びとなった。

現在 さらに輝かしい未来へ

高井法博会計事務所が自社ビルを持ち、100名に近い職員を抱えるようになったのは、お客様の新しいニーズに対応するためでした。さらには宿泊施設をもつ中央研修センターを建設しました。大型化は今後もさらに進むことでしょう。
しかし、規模の大型化は目標ではなく、新しいお客様の、そして時代のニーズに応えることによって生まれた結果に過ぎません。会計事務所の本当の発展は、お客様の発展に合わせた業務の多様化、高度化、専門化にあるのであって、大型化は経営の質的充実の副産物なのです。

開業の時、私が掲げた3つの目標である「ビジネスサポート業」「情報発信基地」「社外重役」は、企業経営の上で揺るぎない真理として、わが経営に生かしていきたいと考えています。

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